離れて暮らす親子が、面会して交流を深めることは、子に危害を加える親など特別な事情がなければ、子の健全な成長にとって望ましいのは言うまでもないですが、そもそも親子が会うことに権利や義務はあるのでしょうか?
一緒に暮らしている間は、意識することなく親子として当たり前に触れ合うわけで、離れて暮らすと急に権利? 義務? となるのも変ですよね。
しかし、現に面会交流が実現されないとき、子と離れて暮らす親は面会交流を請求するのですから、その権利性の所在が重要になってくるわけです。
権利性があるからには義務性もあるとすれば、面会交流とは権利なのか義務なのか、それとも権利でも義務でもないのか。この点はとても重要なテーマでしょう。
ところが、面会交流の権利義務については明文の規定がなく、解釈論が先行して議論が決着していないため、現在でも解決していない難しい問題なのです。
民法での面会交流に関する規定
民法で面会交流が唯一出てくるのは第766条です(協議上の離婚についての規定ですが、第771条で裁判上の離婚にも準用されます)。
民法 第七百六十六条
父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者、父又は母と子との面会及びその他の交流、子の監護に要する費用の分担その他の子の監護について必要な事項は、その協議で定める。この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。2 前項の協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、家庭裁判所が、同項の事項を定める。
3 家庭裁判所は、必要があると認めるときは、前二項の規定による定めを変更し、その他子の監護について相当な処分を命ずることができる。
4 前三項の規定によっては、監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない。
条文における「父又は母と子との面会及びその他の交流」が面会交流を、「子の監護に要する費用の分担」が養育費を示しており、どちらも改正前は「子の監護について必要な事項」とされていたものです。
改正前民法 第七百六十六条第一項
父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議で定める。協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、家庭裁判所が、これを定める。
改正によって、面会交流や養育費が条文に入ったのは一定の評価を受けていますが、その一方で、面会交流が誰の権利義務であるかなど全く触れていません。
また、父母が協議で「定める」となっているだけで「定めなくてはならない」ではなく、面会交流も養育費も離婚の要件ではないことから、どちらも取決めされずに父母が離婚して、離婚後に争われるのは周知の事実です。
このように、法律上もぼんやりとした位置付けであることは、面会交流が取決めされない、取決めされても履行されない現状を助長していると批判があります。
面会交流の権利性には争いがある
面会交流の権利性については、相当前から学説上の激しい争いがあります。そして、現在においても決着は付いていません。
- 親子関係から生ずる自然発生的な権利
- 子の権利
- 子の権利で親の権利義務
- 親の権利
- 親の親権や監護権の一部
- 親の監護権に関連する権利
権利性を認める立場ではこうした見解ですが、面会交流の権利とは、面会交流を求める請求権ではなく、子の監護に関する処分を求める権利、すなわち家庭裁判所に適正な措置を求める権利(申立権)だともされます。
ともかく、民法においても家庭裁判所においても、面会交流の権利性を明言することはなぜか避けられ、現在に至るまで”うやむや”の状況が続いているのです。
それが答えでは、この記事の意味がないので、ここからは面会交流が権利として存在する前提で説明を進めていきます。
国際的には子の権利がスタンダード
「児童の権利に関する条約」では、次のように面会交流を子の権利として定めています。日本はこの条約を1994年に批准しており、2016年2月現在で196の国と地域が締約国であることを踏まえれば、国際的なスタンダードは子の権利です。
児童の権利に関する条約 第九条三
3 締約国は、児童の最善の利益に反する場合を除くほか、父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する。
「定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重」するためには、まさに面会交流を確保する仕組みが必要になりますよね。
日本も条約に批准しているからには、立法上および行政上の措置を取る必要があるのですが、民法第766条に面会交流を盛り込んだとはいえ、面会交流が子の権利であることや面会交流の確保はどこにも触れられていません。
政府回答では問題なし
日弁連などから子の権利を明記すべきとの声は上がっていますが、政府は現行の民法第766条だけで、全く問題ないとする解釈をしています。
つまり、面会交流が父母の協議で調わないときは、家庭裁判所が定めることで面会交流の手続保障(確保)になっており、これらは子の利益を最も優先して考慮することが、子の権利を尊重しているというわけです。
同時に「児童の最善の利益に反する場合を除く」ことも、子の利益を最も優先して考慮することで解決しているという見解なのでしょう。
児童の権利に関する条約:第2回政府回答※178を参照
しかし、たとえ面会交流調停・審判(もしくは離婚調停の付随申立てによる面会交流)で面会交流が決められたとして、相当数が反故にされています。
なおかつ、面会交流の不履行は直接強制に馴染まないため、手続保障だけあっても実効上の面会交流は確保されておらず、子の権利が尊重されているとはとても言い難いですね。
子の権利は行使に問題がある
面会交流が子の権利であるとしても、それだけで事態は解決しません。なぜなら、面会交流の可否を事実上握っているのは、紛れもない同居親だからです。
いくら子の権利を前提にしたところで、現実には同居親の意向で簡単に面会交流は制限され、子の権利は侵害されてしまいます。
ところが、子自身が面会交流を権利と捉えるに至らないのはもちろん、同居親との対立は、日常生活においてマイナスであることも子は自覚しています。
本来なら、親子の利益が相反するとき、特別代理人の選任など手立てはあるのですが、子が自らそのような手続を利用するはずもありません。
ましてや、円満な夫婦の元で暮らす子と異なり、理不尽に一方の親と離別する体験をしたのですから、なおさら無意識にも同居親に迎合しておかしくないはずです。
子が自由意思で面会交流をできるとしたら、活動範囲が一気に広がり、早ければ自我の確立を迎える頃からで、年齢では高校生に上がる15歳くらいからでしょうか。
親に面会交流の権利は存在するのか
子の権利性については、児童の権利に関する条約から明白ですし、子の監護に関する事項が子の利益を最優先することからしても、権利性を疑いようがありません。
子に権利性があるならば、対応する親には義務性があることになりますが、その内容は同居親と別居親で異なります。同居親は面会交流に協力する義務、別居親は当事者ですから面会交流に応じる義務です。
面会交流を望む別居親にとっては何ら義務性がなく、義務性を感じるとしたら(悲しいですが)面会交流を望まない別居親です。
しかし、別居親の都合で面会交流がされなくても、面会交流を強制する方向(間接強制)に進むとは考えにくく、いずれにせよ別居親の義務性は乏しいでしょう。
このように、子の権利性と親の義務性は認められても、子に義務性があるとする見解は見当らず、そうすると、親の権利性とは一体誰に対する権利なのでしょうか?
親の権利行使対象は子ではない
別居親に子へ直接の面会交流請求権を認めることは、子の義務性を認めることになって否定され、別居親の権利は同居親に面会交流への協力を求める権利、家庭裁判所へ子の監護に関する処分を求める申立権です。
現実には、別居親が子に面会交流を直接働きかけるかもしれませんが、子の利益が最優先ですから、親の請求に子が応じる義務はないという意味です。
では、同居親の権利はどうなのでしょう?
同居親にも、家庭裁判所へ子の監護に関する処分を求める申立権が当然にあります。そして、もうひとつ権利があるとすれば、子の利益のために面会交流を制限する権利です。
ところが、同居親には子と別居親の面会交流に協力する義務もあるのですから、会わせない権利と会わせる義務が並立してしまいます。この「会わせない権利」は、親権を取り入れたほうがわかりやすいです。
親権(監護権)と面会交流の権利義務
親権(監護権)とは、親が子を監護教育する権利であり、子に必要な監護教育を受けさせる義務です(民法第820条)。親権は子の利益のために行使されなければならず、子の不利益となる親権行使は制限することもできます。
冒頭で述べたように、子の健全な成長のため別居親との面会交流は必要だと考えられており、面会交流は監護教育の一環だと解釈することができます。
その実現には、同居親と別居親の両方が協力的でなければなりません。どちらの親にも、子が面会交流する権利への応答義務があります。
親権者たる同居親は、子の利益のために親権を行使し、子の利益に反する面会交流を制限して(権利)、子の利益に資する面会交流へ協力する(義務)だけで良く、子の利益を基準にして権利と義務は重なりません。
面会交流における親子の権利義務
ここまでを整理すると、親子の権利義務は次のようになります。
- 別居親に面会交流を求める権利がある
- 同居親に面会交流への協力を求める権利がある
- 面会交流の義務はない
- 子の監護に関する処分の申立権がある
- 同居親に面会交流への協力を求める権利がある
- 子との面会交流に応じる義務がある(強制まではされない)
- 子の監護に関する処分の申立権がある
- 子の利益に反する面会交流を制限する権利がある
- 子の利益に資する面会交流には協力する義務がある
面会交流の争いは別居親と同居親の権利争いだが……
子の権利を最も尊重すべき面会交流は、争いになると親同士が当事者です。
別居親の「同居親に面会交流への協力を求める権利」と、同居親の「子の利益に反する面会交流を制限する権利」の争いでは、子の意向が軽視・無視され、子を保護下に置く同居親は、圧倒的にというよりも一方的に有利です。
この不公平さが、別居親による子の連れ去りや返還拒否など、なおさら子の利益に反する結果を生み出しているのは言うまでもありません。
そして、同居している夫婦においては、一方が子の利益など考えもせず子を連れ去って別居し、その優位な立場を利用して、他方の親と子の断絶が実現されてしまうのです。
残念なことに、面会交流における別居親の権利は、事実上で同居親に握られており建前上でしか存在しません。
手続は用意されていても実効性が伴わない
面会交流調停・審判では家庭裁判所調査官による調査、子の陳述(15歳以上)、手続代理人による子の手続への参加など、家事事件手続法によって手続面は充実してきたと言えなくもない状況です。
ところが、面会交流調停・審判で子の意向を反映させ、家庭裁判所の後見的立場から判断が下されても、相変わらず面会交流の履行は同居親しだいです。別居親ができることは債務名義による間接強制しかなく、この実効性の無さは深刻でしょう。
面会交流が私事であっても、子の健全な成長を社会全体の責務と捉え、国が積極的に面会交流を支援する制度設計がされると良いのですが……。もちろん、子に悪影響を与える面会交流は避ける前提です。
あとがき
記事タイトルでもある「親子が会うのに権利がいる?」について、私見では権利なんていらないと思っています。
親が子に会いたい気持ち、子が親に会いたい気持ちの両方があれば、それだけで誰も面会交流を邪魔できるはずがないと考えているからです。
あえて権利と言うなら自然権といったところでしょうが、これまで権利がある前提で整理してきても、明文の規定はなく観念的な権利に過ぎません。
法律で規定がないのは、やはり親子が会うのに権利はいらないから?
裏返してそのように思うことで納得したいのが本音です。