協議離婚においては、離婚条件の取決めが口約束では反故にされる可能性から、離婚協議書を作成する(場合によっては公正証書にする)ことがあるでしょう。
離婚協議書に記載する内容は、違法行為や公序良俗に著しく反する内容でなければ、当事者間の契約行為なので特に制限を受けることはありません。
そして、離婚後に一切の請求をしない、または債権債務は存在しないなど、いわゆる清算条項と呼ばれる文言を入れた離婚協議書も良く見かけます。
離婚協議書の清算条項と、年金分割の請求はどのように関係するのでしょうか? また、年金分割しない旨の記載があるとどうなるのでしょうか?
年金分割は当事者間の請求ではない
とても重要なので、先に説明しておきます。
年金分割の請求とは、婚姻期間等における当事者の標準報酬を改定・決定する請求(以下、標準報酬改定請求)なのですが、その請求先は年金制度の実施機関です(厚生年金保険法第78条の2第1項、第78条の14第1項)。
年金分割の請求権とは、当事者の他方に対する請求権ではありません。
したがって、債権債務の関係にない当事者が、お互いに一切の請求をしない・債権債務が存在しない等の年金分割に触れない清算条項で合意しても、標準報酬改定請求を妨げることはできないと解釈するのが妥当です。
では、清算条項で「年金分割しない」と明示した場合はどうでしょう?
年金分割しない合意での2つの捉え方
年金分割は、当事者の他方に請求するのではないのですから、年金分割しない合意も無効のように思えますよね。
ところが、合意分割においては、標準報酬改定請求に先立って按分割合を定めなくてはならず、当事者で協議が調わないときは、当事者の一方の申立てにより、家庭裁判所が按分割合を定めます。
よって、年金分割しない合意には次の2つの捉え方があり、どうやらここが論点を複雑にしているようです。
- 標準報酬改定請求をしない合意
- 按分割合を定める調停・審判の申立てをしない合意
1.標準報酬改定請求をしない合意
インターネットで検索すると、標準報酬改定請求(年金分割の請求)をしない合意は、無効だとする主張が散見されます。
当サイトにおいても、当事者の一方が標準報酬改定請求権を放棄する(または行使を制限される)という解釈においては、私法上の請求権ではないこと、債権債務の関係にない当事者間の合意であることから同じ考えです。
しかしながら、合意分割の標準報酬改定請求は、請求をすること及び按分割合に当事者の合意があることが要件になっています(厚生年金保険法第78条の2第1項第1号)。
厚生年金保険法 第七十八条の二第一項第一号
一 当事者が標準報酬の改定又は決定の請求をすること及び請求すべき按分割合(当該改定又は決定後の当事者の次条第一項に規定する対象期間標準報酬総額の合計額に対する第二号改定者の対象期間標準報酬総額の割合をいう。以下同じ。)について合意しているとき。
このように、厚生年金保険法は、合意分割で標準報酬改定請求すること自体にも、当事者の合意があることを予定しているのです。
この規定から、合意分割の標準報酬改定請求をしない合意は、標準報酬改定請求の一要件である当事者の合意がないことの確認だとも解釈でき、一定の有効性は認められると考えます。
ただし、標準報酬改定請求することに当事者の合意がなくても(当然、按分割合の合意はない)、調停・審判で按分割合が決まれば請求できるのですから、後述する不起訴の合意も含まれていないと不十分でしょう。
また、あまり知られてないようですが、合意分割の標準報酬改定請求は、年金が増える第1号改定者と、年金が減る第2号改定者のどちらからも可能です(当事者の双方に請求権がある)。
そうすると、合意分割の標準報酬改定請求をしない合意は、請求権を持つ当事者双方が、年金制度の実施機関に対する自らの請求権を行使しない合意であり、当事者一方の請求権行使を他方から制限する合意ではありません。
請求権者である当事者それぞれが、自らの意思で請求しないことは自由ですから、こちらの解釈では合意を有効だと考えます。
長々と説明してきましたが、あくまでも条文を根拠にした後付けの論理です。
普通に考えて、年金分割しない合意とは、年金が減る2号改定者に対する標準報酬改定請求権の放棄・行使制限だと思うでしょう。
年金分割の当事者が、年金分割制度や厚生年金保険法を熟知しているとは思えず、年金分割しない合意形成時の意思と、説明してきたような解釈が合致していない場合、やはり合意は無効となるのかもしれません。
2.按分割合を定める調停・審判の申立てをしない合意
標準報酬改定請求をすること及び按分割合に合意がないときは、当事者の一方の申立てにより、家庭裁判所が按分割合を定めることで標準報酬改定請求ができます(厚生年金保険法第78条の2第1項第2号)。
厚生年金保険法 第七十八条の二第一項第二号
二 次項の規定により家庭裁判所が請求すべき按分割合を定めたとき。
当事者間において、年金分割調停・審判の申立てをしない合意は、一般的に「不起訴の合意」と呼ばれます。
不起訴の合意は、対象が特定されず包括的な場合、憲法第32条との関係で否定されますが、対象となる権利または法律関係が特定されていると、公序良俗に反しない限り有効に扱われます。
そのため、対象を年金分割に特定した不起訴の合意があると、合意分割の按分割合で争ったとき、実際上として標準報酬改定請求ができないことになり、結果として年金分割をしない合意の目的は達成できます。
ただし、以下に該当するケースでは、公序良俗に反するとして、不起訴の合意を無効と訴えることは可能かもしれません。
- 年金保険料納付に対する寄与の程度、その他一切の事情を考慮しても、年金分割しないことが不当である場合
- 年金分割しないことで失われる利益を、補完できるだけの材料(財産分与や一時金支払いなど)がない場合
年金分割制度には、当事者の年金保険料を共同で納付したものと考え、その納付記録(標準報酬)を分割して将来の所得保障とする趣旨があって、特段の事情がない限り、互いに同等とする判例が複数見られます。
本来は同等に分割すべきなのですから、同等に分割しないことにも、公序良俗に反しない何らかの事情を必要とするということです。
年金分割しない合意を有効とした判例がある
判例では、年金分割をしない旨の合意について、協議により按分割合について合意することができるのであるから、協議により分割をしないと合意することができるとされています(静岡家裁浜松支部平成20年6月16日審判)。
この事案は合意分割で、年金分割制度による一方の取り分を放棄する旨の離婚協議書が作られていました。
協議により按分割合について合意することができる→協議により分割をしないと合意することができるとした結論に、疑問を感じるでしょうか。
按分割合は、法令で規定された範囲(下限を超え上限50%まで)であれば、当事者の協議で定めることができます。
したがって、年金分割が起こらない按分割合(つまり現状維持となる下限)に定めることもでき、これが年金分割しない合意だと家庭裁判所は考えているようです。
審判では、当事者の協議で按分割合が定められる性質から、年金分割しない合意を認めており、標準報酬改定請求権を放棄する(または行使しない)合意や、不起訴の合意を正面から認めたものではありません。
しかし、合意分割で年金分割しない合意を、家庭裁判所が有効だと判断している点はとても重要です。
これまで説明してきた、年金分割しないという文言の捉え方にかかわらず、合意は有効に思えるのですが、この審判には解釈上の批判も確認できました。
3号分割では年金分割をしない合意が無効
按分割合が0.5(50%)と定められている3号分割は、標準報酬改定請求をすること及び按分割合に当事者の合意が必要ではなく、年金分割調停・審判の対象でもありません。
また、3号分割の標準報酬改定請求は、合意分割と違い被扶養配偶者によってのみ行われます(厚生年金保険法第78条の14第1項)。
これらから、標準報酬改定請求をしない合意、按分割合を定める調停・審判の申立てをしない合意のいずれも意味をなさず、3号分割において年金分割しない合意は、その解釈にかかわらず無効です。
したがって、年金分割しない合意があっても、婚姻中の被扶養配偶者は標準報酬改定請求できますが、気を付けたいのは、年金分割しない合意に基づいて、他の離婚条件が定められている場合です。
他の離婚条件は、無効な合意に基づいて定められているのですから、3号分割することによる影響を避けられないでしょう。
まとめ
- 「年金分割しない」の文言は解釈の違いで有効説・無効説に分かれる
- 調停・審判の申立てをしない不起訴の合意で年金分割できなくなる
- 合意分割の年金分割しない合意を有効とした判例がある
- 3号分割は年金分割しない合意が無効
年金分割をしない合意は、無効説が多く見られるところ、判例が有効としているのでそのままの文言では不安が残ります。
離婚協議書に入れるとしたら、「年金分割を争わないこと及び年金分割に関する調停・審判の申立てをしないことに合意した」などとすれば良いのではないでしょうか。