家庭裁判所が親権者または面会交流について決める際、最優先に考えるのは子の福祉です。夫婦(または元夫婦)にどのような事情があっても、子の福祉を害する行為は否定され、子の福祉が尊重される形で決められます。
子の福祉は非常に大きな影響力を持ち、子に関する家庭裁判所の判断は、全てが子の福祉に左右されると言っても過言ではありません。
いくら子を愛していても、「子の福祉のため」と言われて引き下がるしかないのは、親権や面会交流で争っていれば多くの人が経験しているでしょう。
では、子の福祉とは一体何を意味するのでしょうか?
難しいテーマですが、この記事はひとつの考え方として捉えてください。なぜなら、子の福祉(利益)は一律で語られるものではなく、子によっても変わるからです。
ここでは、親が子を虐待するなど、明らかに親を排除したほうが子にとって良いと考えられる極端な状況を除いた前提とします。
民法では子の福祉が定義されていない
現在の民法では、第820条で子の利益のために監護教育権(狭義の親権)を定義しており、子の福祉は子の利益として捉えても問題ありません。
親権は、子の利益のために存在する義務性が強い親の権利です。そのため、子の利益に反する親権行使は認められないのが原則です。
ところが、肝心の子の利益、つまり子の福祉について民法で明文の規定はありません。
もっとも、子の福祉を規定することは、子がどのように育つのが適切であるか、親子関係とはどうあるべきかを定義することですから、そのような概念まで法律で定義し、制限していくことなど到底無理です。
したがって、何が正しくて何が誤りといった線引きはされず、個別の事情に照らし合わせて子の福祉は考慮され、絶対的に保護すべき対象として扱われています。
曖昧な概念であるだけに、家庭裁判所でも当然に一律の運用ではなく、当事者を説得できないときに大義名分として濫用される嫌いすらあるのです。
子の福祉とはどのような概念なのか
子が健やかな成長を遂げるために、できるだけ悪影響を与えまいとするのが子の福祉における基本的な考えです。つまり、子にとって不利益とならないように大人が配慮するということですね。
いくつか、子の福祉に関する内容を紹介しますのでイメージしてみてください。
現状維持の優先
子の生活環境が変化することは、幼いながらも形成された人間関係を断ち切り、子の情緒を不安定にさせる要因として敬遠されます。
つまり、現在が安定した環境であるときは、新しい環境がより優れているとしても、子への影響に配慮して環境を変えることに家庭裁判所は消極的です。
環境を変えたからといって、必ずしも悪影響があるとは限りませんが、少なくとも現状の安定を維持できれば悪影響はないと考えられています。
よって、現状が著しく良くない環境、なおかつ新しい環境が好ましい状況を除くと、現状で監護している親を親権者とするケースが多くなるでしょう。
この点を逆手にとり、親権争いをしている最中に子を連れて別居して、親権を得ようとする方法が実際に行われているのは否定できません。
相手配偶者からの避難を除くと、親権を目的に子を連れて別居するのは、多くの場合に子の福祉を考えているのではなく別居した親の都合ですが、そのように利己的で子の福祉を考えない親であっても、別居先の環境に子が慣れて安定した生活を送っている状況下では、現状維持を優先する傾向があります。
なお、子の連れ去りに違法性が認められるときは、連れ去った親の適格性が疑われますので、このケースに限っては必ずしも現状維持が優先されません。
子の成長に与える影響
いくら現状維持が優先されるといっても、常に優先されるのでは連れ去ったもの勝ちになってしまいます。そのため、両親の監護体制に大きく差があり、子の人間的な成長に影響が大きいとみなされるときは、現状を変える判断もされます。
例えば、親権者を決める際に、母親の元では保育所に預けられるか、帰宅時に保護者不在の状態、いわゆる「カギっ子」として育つことを余儀なくされるとします。
一方、父親の元では祖父母が日常の監護を補助し、なおかつ父親の資力が十分にあるとすれば、当面の監護だけではなく将来の教育も母親とは変わる可能性があり、子の意思に反して父親の元で育ったほうが、子の福祉に資すると判断されるかもしれません。
保育所を否定しているのではなく、一人の保育士が多数の子を担当する環境よりも、乳幼児に対して常に目を配ることができる親族の監護が、より優れていると判断されやすいという意味です。
逆に、母親に祖父母等の監護補助者がいて、父親には不在だとしたら、いくら父親の資力が十分でも母親と暮らすほうが適していると思われます。なぜなら、母親の資力不足は父親からの養育費分担で補うことができるからです。
複数の家族・兄弟姉妹と関わりながら成長していくことで、人格形成においては安定するという考えがあるので、基本的に兄弟姉妹は離さない、監護ができる親以外の存在、親の健康、経済状況、生活態度なども関係してきます。
子の福祉に、監護体制や親の資質が影響することから、離婚調停など子が関係する家事事件全般では、いかに相手が親として不適格者であるか主張する方法が使われます。特に弁護士がついているとそのような傾向が強いです。
私物を買えば浪費、晩酌をすると酒乱、しつけの範囲で叱れば虐待、仕事で帰宅が遅くなると家庭放棄などです。こうした事実無根の主張でも、調停委員や裁判官の心証に影響するかもしれず軽視できません。
子の意思の尊重
子が激しい嫌悪感を示していたり、恐怖を感じ萎縮してしまったりする状況に置くことは、当然ながら子の福祉の観点では避けられます。
ただし、子の福祉において子の意思は絶対ではありません。子の意思は尊重されますが、成人として自立した社会生活を送ることができない子は、幼いほど自らの現状や将来を判断する能力に欠けるからです。
そのため、子の意思は確認するとしても、家庭裁判所が考える子の幸福は、時に子の意思と反することもあるでしょう。
家事事件手続法は、親権者の指定または変更の審判、ならびに子の監護に関する処分の審判において、15歳以上の子は陳述を聴かなければならないと定めています。
これは、15歳以上の子なら一般に判断能力が備わっており、陳述を聴くことで子の意思を尊重し、子の福祉に叶った審判をするためです。
15歳未満の子についても、10歳程度になればある程度の判断能力はあるとされ、家庭裁判所調査官によって子の意思を確認することが多いです。
もっとも、自らが置かれている状況を理解しているかどうかは、子の発育状況によって異なりますから、10歳程度の子でも意思が重視されないこともありますし、さらに幼い子では重視されないのも無理はありません。
非監護親との面会交流はすべき
定期的ではあっても、非監護親と触れ合い愛情を受けることは、子の健全な成長に望ましいと考えられています。離婚がなければ両親に育てられるのが当然で、離婚は親の都合でしかなく、非監護親を子の人生から切り離すのは不利益とされます。
また、子は成長過程で社会的・道徳的なルールを教え込まれ(父性原理と呼ばれます)、愛情に包まれて心豊かに育つ(母性原理と呼ばれます)両方が必要です。
多くの家庭では両親のどちらかが口うるさく、どちらかが優しい親となりますが、これは自然に父性原理と母性原理を子が学習する機会になっており、父性原理だけでも母性原理だけでも、子の成長には良くないと考えられています。
言葉だけ聞くと、父性原理は父親が、母性原理は母親が担当しそうですが、実際には子と接することの多い母親がしつけで父性原理を、帰宅して子を可愛がる父親が母性原理を学習させていることも多いですよね。
ですから、原則的には両親と触れ合うほうが子の人格形成に良いとされ、特段の事情がなければ、面会交流を認めるのが家庭裁判所の考え方です。
特段の事情とは、子への虐待のように直接的な不利益の他、両親の対立が激しく、面会交流を無理に強制すると子や監護親の精神を不安定にするおそれがある、連れ去りを誘発してしまうといった状況も含まれます。
子の人権と子の福祉
子の監護者を「保護者」とも呼ぶように、子は従来から保護されるべき対象として捉えられてきました。子は親の言うことを聞いて当然という古くからの考えもあり、親権を「親の支配下に置く」意味で解釈する人もいます。
現在では、子も表現や思想の自由を持ち、一人の人間として尊重されるべき存在、つまり子の人権を重視するように変わってきています。
しかしながら、子は未成熟で自律・自立は難しく、必然的に保護を要することから、成長するまで子の権利はある程度制限していくしかありません。
そこに親権が関係してくるので、親権は子の権利を制限する権利のように思われがちですが、親権は子の利益のためと規定されており、子の権利を制限する目的で親権が行使されるとしても、それは子の利益のためである必要があります。
成長発達権という考え方
子はこれからの社会を形成していく貴重な宝です。その成長を一次的に見守るのは親でも、二次的には社会全体に子の福祉を守る責任があるとされ、子が健全に成長発達していくのは、子が持つ権利(成長発達権)だとする考え方もあります。
子の福祉を考慮するのは、成長発達権を侵害しないことでもあり、子を育てる親の義務とリンクして、義務的性質を持つ親権が子の福祉に反してはならないのです。
このように、子の福祉というのは子の権利も含まれているので、子の福祉を軽んじる親は、子の権利を軽んじているとも言えるでしょう。
離婚する時点で子の福祉は害されている
夫婦にとっては、他人同士が婚姻して同じ戸籍に入り、再び他人同士となるために離婚するのですが、子にとって親はどちらも肉親で、愛情に包まれ両親と一緒に生活していくことを理想とするのは言うまでもありません。
余程ひどい親でもない限り、子にとっては両親ともに愛情の対象となる存在なのですから、親の離婚はそれだけで子の福祉を害しているのです。
経済力がなく自立できない子は、両親の一方が親権者になり、時には望まない親権者であっても、一緒に暮らしていかなければ生きていく手立てを失います。
離婚するだけで子の福祉を害しているのに、親権や面会交流で争い、自己都合を押しつけてさらに子の福祉を害することは避けるべきです。
もちろん、子のために離婚しない選択をしたところで、仲が悪く関係が冷え切った両親と一緒に生活していくのは、やはり精神衛生上良くないのも明らかなのですが……。
あとがき
結局のところ、子の福祉とは子の健全な成長を阻害しないあらゆる環境です。しかし、子に関する争いは、ほとんどが親同士の感情的な対立です。違いますか?
真に子の幸福を願って対立するのならまだしも、相手に対する嫌悪感が先立ち、互いが自己満足のために争い、子がないがしろに扱われるのは、残念なことですがそれが現実です。
どれだけ家庭裁判所が子の福祉を考慮した判断をしても、希望どおりにならなかった親には不満が残ります。とはいえ、本当に自分の希望が子の福祉に資するのか、親として良く考えなくてはなりません。
自分の希望は、子の福祉ではなく自分のためではないのか。この点を再考してみると、子の成長を見守る親としての姿勢が変わってくるのではないでしょうか。
夫婦としてはうまくいかなくても、親として子の成長に相互協力がなければ、それはやはり子の福祉を害して子の権利を軽んじていることになるのです。
もし、親の都合で子の福祉を害した自覚があるなら、今からでも考え直して、子のために親同士が協力できる道を探ってみましょう。どちらも子を愛し、子に愛されるべき親なのです。