選択的夫婦別姓が、自民党の総裁選で争点となることなど5年前は夢にも思わなかった。やはり時代は移りゆくものである。
法制審議会が選択的夫婦別姓の要綱を答申したのは1996年。これまでも実現しそうな動きはあったが、いわゆる保守派にことごとく潰されてきた。世論が賛成多数に傾いてから久しい。
「機運が高まった」などとうそぶく国会議員もいるが何のことはない、自民党内部の勢力図が変わった上に、支持母体で大口献金をする経団連から導入提言があったのだから、自民党としても動かざるを得ないのは当然だ。
政権与党に国民の声など関係なく、選挙と金と権力にしか興味がないのは、これまでもこれからも変わらないだろう。とはいえ、投票する私たち有権者全体の責任でもあるのだが。
本題に入るが、選択的夫婦別姓は賛否両論でどちらの声も大きい。
個人的には、夫婦同姓で不都合のある人がマイノリティだからといって、無視するのは違うと思っている。つまり、選択的夫婦別姓には賛成の立場だ。
また、別姓にしたい人だけが選択するのであって、同姓を望む人には影響のない制度にもかかわらず、社会全体の秩序が破壊されるかのような物言いで反対されていることにも違和感がある。
選択的夫婦別姓についての様々な意見がある中で、反対理由として目にする「伝統的家族観」「家族の一体感」「家族の絆」などの言葉が気になってこの記事を書き起こすことにした。
※記事の性質上、全体を通じて氏を「姓」としている。
家族の一体感に同姓は不可欠なのか
家族が一緒に暮らし、年月を経て一体感や絆が強くなっていくのは、情のある人間なら誰でもそうだろうと思うし理解できる。
一方で、伝統的家族観なる概念が、具体的にどのような状況を指すのか観念的でわからないが、「夫は仕事で妻は家庭」といったステレオタイプは論外なので取り上げない。
夫婦別姓で、伝統的家族観が破壊されるという反対派の主張は、反対解釈すれば、夫婦同姓だからこそ伝統的家族観が維持されると捉えることができるわけで、子を含めた家族=同姓共同体の構図を崩したくないのだと推測する。
なお、伝統的家族観の「伝統的」が、所詮は明治時代からだと言葉尻を捉えた賛成派の一部意見には全く賛同できない。反対派は太古からそうだと言いたいのではないことくらい、伝統的家族観を理解できていない私にでもわかる。
家族観の基礎が同姓共同体であるなら、別姓の事実婚夫婦では、父と母子との間に家族観は存在しないか希薄なのであって、もはや家族と呼べないことになってしまう。
さすがにそれは考えられず、別姓の夫婦間のみならず別姓の親子間においても、互いを家族として生きていくことに疑いの余地はない。
家族には同姓どころか血縁すら必須ではない
例えば、養子縁組せず子を引き取る里親は、法律上も血縁上も親子ではないが、家族の意識で子を育てるはずだ。子も最初は抵抗があるかもしれないが、次第に育ての親である里親に家族の意識を持ち始めるだろう。
連れ子再婚で養子縁組しない場合、相手配偶者の子を家族として迎えるつもりがないのに、再婚を決めるのだろうか?
要は、夫婦だろうと親子だろうと血縁だろうとなかろうと、互いを家族だと認め、そこに家族としての愛情が生まれていれば家族なのであり、同姓が家族を作るのではないと強く言いたい。
私が考える家族とは、戸籍上の姓に依存した形式的なものではなく個々の心情に存在する。
もちろん、反対派は受け入れがたいだろう。しかし、現に別姓で暮らし、互いを愛している家族が存在する以上は否定できないはずだ。
別姓が家族が崩壊させるなら多くの家族は崩壊している
ここで、どうしても解消できない個人的な疑問を書いておく。
説明するまでもないが、日本の法律婚は夫婦が同姓でなければならない。すなわち、夫婦の一方は相手配偶者の姓に変わる。
必然的に、夫婦の一方は家族との同姓を捨て去り、別姓になることを避けられない。家族の誰かが婚姻で同姓共同体から離脱するとき、家族の一体感や絆は失われるのだろうか?
何をばかなことを……と思わず聞いてほしい。反対派の主張には、夫婦別姓で親子が別姓になることへの危惧が含まれている。
ほとんどの婚姻は祝事であり、子が別姓になることを親は喜んで送り出す。子は好きになった相手と同姓になるため親と別姓を選ぶが、親子関係・家族関係は崩壊しない。
親子や兄弟姉妹が別姓になっても、家族が崩壊しないことは無数の人が体験済みで、反対派の中に婚姻で親と別姓になった人、相手配偶者に親と別姓になることを選ばせた人(自分が戸籍筆頭者)のどちらも多くいるはずだ。
その主張とは正反対に、親子別姓を自ら選んだ(または相手配偶者に選ばせた)当事者が、夫婦別姓の反対理由に親子別姓を持ち出すのは矛盾ではなかろうか。
この点が、どこからも聞こえてこないのは不思議でならない。
成年の親子別姓は良くて未成年はダメなのか
婚姻での親子別姓(子が自ら行う)は祝福され、別姓夫婦から生まれる子の親子別姓(子は受け入れるしかない)が危惧されるのだとしたら、その違いは子の意思と年齢である。
そして、生まれたときから父母のどちらかと別姓であること、または子が幼いことが、家族の一体感や絆を失わせ家族を崩壊させるとする主張は、少なくとも私には説得力を持たない。
私は、同姓の家族も別姓の家族も等しく愛しており、今まで生きてきて、同姓・別姓の違いで家族を区別した覚えがないからだ。私にとって、家族と姓は全く結びついていない。
夫婦・親子の別姓が家族を崩壊させるという主張は、自らが別姓の家族を区別していることの裏返しでもあり、人それぞれなのは理解できるが、できれば賛成派も反対派もそうであってほしくないと願う。
現に、生まれたときから親子別姓の事実婚や、子が幼いうちに離婚したケースにおいて、別姓の親子関係が健全なケースは普通に見られる。
親子の別姓が親子関係悪化の原因であれば、離婚した親(主に別居親)と別姓の子との関係は悪化するはずだが、実際には面会交流で争ってでも子と会いたい別居親は多いし、別居親に会えて喜ぶ子も多い。
親子別姓が反対理由なら離婚での親子別姓にも反対すべき
私が、夫婦別姓への反対理由として親子別姓を主張する意見に賛同できない理由は、(これから生まれる子を含め)姓で家族を区別する人であってほしくない他にもうひとつある。
それは、別姓夫婦による親子同姓よりも、子の福祉に影響が大きいと思われる離婚での親子別姓(原則)について、何ら反対意見が示されていないことだ。
しかし、夫婦別姓への反対理由として親子別姓を主張する立場では、おそらく離婚による親子別姓には反対できないだろう。なぜなら、離婚で親子別姓になってしまうのは、婚姻が夫婦同姓であることに起因している。
そう、離婚での親子別姓に反対すると、自分が守りたい夫婦同姓を否定するパラドックスに陥ってしまう。夫婦同姓を維持したければ、離婚での親子別姓を受け入れるしかない。
私は、夫婦別姓よりも離婚と父母の確執のほうが子に対して罪深いと考えている。親が同姓か別姓かではなく、親同士が争わないことを子は一番に望んでいるのではないだろうか。
ましてや、別姓夫婦と同居して暮らす子が、別姓の親と関係を悪くする可能性など、同姓・別姓に関係なく夫婦関係が悪化する可能性と比べてずいぶん低いと思われるし、別姓夫婦であることが原因で、同姓の親子関係が悪化する可能性も同じく低いと思われる。
真に子への影響を憂慮しているなら、離婚時の婚氏続称(婚姻中の姓を離婚後にも称すること)を義務化して、婚姻中も離婚後も親子同姓(呼称として)の維持を主張すべきだが、反対派のそうした意見を目にしたことはない(中にはいると思うが)。
本当に子への影響が夫婦別姓への反対理由ですか? 夫婦別姓を望む一部の人たちより、同姓夫婦の離婚のほうが親子別姓を多く生み出していませんか?
親子別姓になるから夫婦別姓には反対、しかし離婚での親子別姓は許容。これでは一貫性に乏しく、私は受け入れられないのである。率直に言えば、反対したいがために都合よく親子別姓を持ち出しているように感じる。
子の社会生活に対するケア
選択的夫婦別姓への賛成・反対を問わず、親子の別姓が子の健全な成長、いわゆる子の福祉に与える影響を問題視する声は大きい。
この点は私も同意する。なぜなら、他者と同一であることに安心感を覚えるのは、程度の差こそあれ、多くの人が持つメンタリティだからだ。
また、精神的にも未成熟な幼い子は、異質な者に対して時に残酷な仕打ちをする。学校でのいじめはその最たる例だろう。
対外的な親子同姓に向けて
夫婦同姓が圧倒的多数の中、夫婦別姓を選びたい夫婦は、自らの意思で別姓を選ぶのだから、対外的に夫婦別姓であることを揶揄される覚悟はできている。
揶揄する人もどうかと思うが、同調を是とする日本人の民族性は強烈で、選択的夫婦別姓が導入されても、しばらく奇異の目で見られ嫌な思いをするのは想像に難くない。
対して、生まれた時点で姓が決まる子は、対外的に親子別姓を揶揄される言われはない。言われはなくとも、前述のとおり社会生活で残酷な仕打ちを受ける可能性がある。
選択的夫婦別姓は、この問題を解決できないとされているが本当にそうなのか。むしろ、選択的夫婦別姓を潰したいがゆえに、この最大の障壁を乗り越える議論が進まないのだと邪推してしまう。
考えたいのは、戸籍上は親子別姓でありながら、対外的には(任意で)親子同姓のようにできる方法の確立である。ひとつの方法を提案してみたい。
旧姓の通称使用と夫婦姓の通称使用
「夫婦同姓で旧姓を通称使用すればいい」とする反対意見は、本質的な夫婦別姓ではなくても、夫婦別姓を望む人たちへ便宜を図ろうとする試みに他ならない。
旧姓の通称使用は、夫婦同姓を固持したいがための妥協案にすぎないが、この通称使用という方法論は、選択的夫婦別姓と共存する場合、対外的な親子同姓を実現する足掛かりになる。
つまり、夫婦同姓の不都合を通称使用で解消する方法を流用して、夫婦別姓における親子別姓の不都合を、夫婦姓(戸籍筆頭者の姓)の通称使用で解消できないだろうか。
この場合、子の姓は戸籍筆頭者の姓と同一とし、子と別姓の親に戸籍筆頭者の姓の通称使用を認める。ただし、別姓夫婦と子が同戸籍に入っていることが条件(現行の戸籍では不可能)。
使用対象が真逆ではあるが、子と別姓の親に夫婦姓の通称使用が認められれば、子の社会生活における親子別姓の不都合は、ずいぶん解消されるように思う。
同姓夫婦に旧姓の通称使用を許すくらいだから、別姓夫婦に夫婦姓の通称使用が許されない理由はあるまい。姓による不都合を解消する手段としては共通している。
しかも、子が受けるかもしれない不利益を解消するためなら、たとえ一部の人たちへの便宜にすぎないとはいえ、社会的に賛同を得られやすいと考えるのだが。
人格攻撃ではなく建設的な議論を
親子別姓の影響において、子を主眼に置いた不安は賛成派と反対派で共通している。
ならば、選択的夫婦別姓の最大の争点は、夫婦別姓の是非ではなく、親子が別姓になることへの影響であるべきだ。この点について、議論は尽くされたのだろうか。
ネット上のやり取りを見ていると、いつも最後は人格攻撃になるが、結局議論する気など最初からないのだろう。また、他者の意見を論破してマウントを取りたいだけの参加者が多すぎる。
過去には、国会に「別姓を望む者は、家族や親族という共同体を尊重することよりも個人の嗜好や都合を優先する思想を持っている」という内容を含んだ反対請願まであった。
夫婦別姓で、家族や親族が尊重されないという主張は、自分が別姓の家族や親族を尊重しないというブーメランになることさえ気づいておらず、姓に関係なく家族や親族を尊重する人間が、世の中に存在することすら想像できない。
しかし、見解の相違だと遮断しては、社会の分断が広がるばかりだ。多数が夫婦別姓に賛同している現状でも、さらに多くの賛同を得られるよう建設的な議論を進めてほしい。
「だからダメだ」の非難合戦で終わらず「ではどうするか」がスタートである。
多数派が少数派の意見を無視するようでは、国会と何も変わらないではないか。